皆さんこんにちは、このサイトを管理させて頂いているnagaといいます!
今回は10月8日に放送される
バラいろダンディ ★江本孟紀がプロ野球界を!杉村太蔵が政界をズバッと一刀両断
に、野球解説者の江本孟紀さんが出演するそうなので、阪神に所属していた頃の戦績や若い頃について少しまとめていきたいと思います。
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解説者の江本孟紀
名前:江本 孟紀(えもと たけのり)
生年月日:1947年7月22日(72歳)
出身地:日本・高知県高知市
身長:188cm 体重:77kg
愛称は「エモやん」で、現役時代の通算24ボークは日本記録となっています。
現役引退後は野球解説者、野球評論家、政治家、タレント、俳優、実業家として活動しています。
政治家としては、参議院議員(2期)、スポーツ平和党副代表、自由連合副代表、民主党高知県連顧問、参議院内閣委員長などを歴任しています
株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督などに就任しています。
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江本孟紀が阪神に所属していた頃
江本孟紀さんが阪神に所属していたのは、1976年~1981年の6年間です。
その前は南海に1972年~1975年の4年間、東映に1971年だけ所属していました。
阪神移籍後初の春季キャンプでは、甘いマスクで女性ファンの人気を集めて、キャンプ地は常に多くの人だかりが出来ていました。
1976年はシーズン130試合中、江本の他に古沢憲司、上田二朗、谷村智啓で120試合近くに登板し、江本自身も8完投を含む15勝9敗の好成績を収めていました。
1977年には先発ローテーションに加わりながら中継ぎも担当し、11勝13敗11セーブを記録しています。だが、阪神移籍後には、投球する際のサインが一つしか存在せず、さらに複雑なサインが存在しなかったこと、さらに監督の吉田義男も例えチームが敗れても敗因を分析するのではなく、単に相手が頑張ったからとしか考えていないことに、江本と同時に移籍した島野は「それで勝っているんだから。逆にいえばこのチーム本当に強いということや」と感心していましたが、南海時代に野村仕込みの「シンキング・ベースボール」で鍛えられた江本は拍子抜けし、「戦術もクソも無い野球を続けていればチームの長期低迷は避けられない」と考えていました。
この江本の危機感や不安はやがて現実のものとなり、1977年は4位、監督が後藤次男に交代した1978年は球団史上初の最下位に終わり、感覚のズレによる違和感は引退まで拭うことが出来なかったそうです。
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江本は、阪神タイガースが球団史上初の最下位に終わる屈辱を味わったことで、チーム再建案について盟友・古沢と大学の先輩である田淵幸一と共に話していた矢先に、二人が西武ライオンズへトレードされたことで大きなショックを受け、球団に自らのトレードの申し入れを行ったそうです。
この年のオフに、江本は球団初の選手会長を要請されましたが、当初は拒否していました。江本は、阪神タイガースが球団史上初の最下位に終わる屈辱を味わったことで、チーム再建案について盟友・古沢と大学の先輩である田淵幸一と共に話していた矢先に、二人が西武ライオンズへトレードされたことで大きなショックを受け、球団に自らのトレードの申し入れを行ったそうです。
この年のオフに、江本は球団初の選手会長を要請されましたが、当初は拒否していました。
しかし、同時に球団社長に就任した小津正次郎は、阪神電鉄本社内でも労働組合を相手に手腕を発揮して就任した実力者で、その小津に対抗できる人物として、選手会の会合で要請されたことを受けて就任したそうです。
小津は江本と初対面の際に、「タイガースの改革に一番必要なものは?」と意見を求めた際に、江本は「フロントにゴマすって長年コーチをやっているヤツがいる。実力のみで評価できる監督を呼んで下さい」と返答しました。
これに対して、小津は後日になって江本を再び呼び出し、次期監督をドン・ブレイザーに決定したことを伝えました。
ブレイザーは南海ホークスでヘッドコーチを務めていた時期もありますが、江本が理由を尋ねたところ「お前、言うとったやろ?野球を知っている人物でゴマすったりしない人をって」と答えて、江本も「グッド・チョイス。確かに実力優先主義。いつも『コンセントレイションしろ(集中しろ)』が口癖だった。ブレイザーならチームも変わると確信めいたものがあった」として、後年「それにしても選手会長の意見を取り入れて監督を決めるとは、今では考えられないだろう。」と回想しています。
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1979年には最下位を脱して4位となり、江本は名門再建の道筋が見えてきたと感じているなか、1980年に後に阪神で主力選手となる大型ルーキー・岡田彰布が入団しました。
しかし、岡田のポジションである二塁には名手・榊原良行がおり、ブレイザーは「オカダはまだ新人。一軍でずっと活躍出来ると確信を持てるまでオカダを安易には使わない」と宣言しました。
これに対して、岡田は「そんなの関係ないだろ」と言い、マスコミやファンもブレイザーの信念を受け入れず、挙句の果てにはブレイザーの自宅へ剃刀が入った手紙が届き、ブレイザーは退団することになりました。
江本は著書の中で、「ブレイザー監督が無ければ阪神は改革できなかった。(ブレイザーが退団したことで)ついに再建のチャンスは消えたな、とオレは失望感を覚えた」と記しています。
さらに江本は、ブレイザーの後任となった中西太の選手起用に不満を募らせて、先発登板した1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、ベンチ裏で新聞記者などを前に「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言してしまいました。
この発言が、監督批判というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明しました。
クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍し、1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に、絶えず黒い交際を噂されていましたが。しかし実際には、阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望もありました。
対巨人戦成績15勝14敗、対王貞治67打数9安打3被本塁打10打点、打率.134。
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江本孟紀の解説は?
現在は、野球評論家として長く活動している江本孟紀さんですが、その歯に衣着せぬ辛口解説は、「江本節」として定評があります。
ズケズケした物言いに抵抗を感じる声も多く、決して万人から好感を持って受け入れられているわけではありませんが、解説者としては引く手あまたとなっており、テンポ良い軽妙なしゃべりと、特定の球団に媚びずズバリと斬る毒舌がウケていることは否定できません。
やはり、野球ファンとしては、優等生的な技術論や、一部のチームに肩入れするような解説ばかりだとウンザリするもので、そこに、江本孟紀さんが遠慮会釈ない辛口でぶった切るものですから、ヤンヤとウケるワケですね。
相手が大御所であろうが臆せずに、「あんなことじゃダメですよ」とポンポンと言いたい放題で、自らを拾い上げてくれた野村克也に対しても、尊敬しつつも辛辣な評価を浴びせるほどですから、そのほかの向きへは推して知るべしですね。
彼の特徴として、その場その場のノリで好き放題しゃべり倒す傾向があり、以前は「○○は優秀な人物で手腕も相当なものだ」と言っていたのが、後になると「○○は指導者失格。人格もヒドい」などコロコロ変わることも珍しくありません。とはいえ、その「いい加減」さも含めてどこか愛すべき人間臭さが、江本孟紀の解説がウケる要因なのかもしれませんね。
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まとめ
- 野球解説者の江本孟紀
- 江本孟紀が阪神に所属していた時
- 江本孟紀の解説は辛口?
- まとめ
以上が今回の記事になります。
一度の暴言でプロ野球選手としての生命を絶たれてしまった江本さんですが、野球解説を行う事により、タレントとしても活躍をしているのは凄いですね。
これからの活躍にも期待するところですね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。